"間合い"
最近、この"間合い"が大切な事がわかってきた。
どうやら、自分はこれができてなかった。
昔はそれを意識しなくともうまく回ってきたのは、偶然以上のなにかがあったからかもしれない。
しかし、それを失った今。それが大切な事が痛いほどわかる。
もともと嫌いな物に囲まれて育ってきた自分は、嫌な物と一定の距離を保つということが身につきにくかったのだろう。
それは、嫌な物を感覚的に拒絶するという行為を成熟させなかっただけでなく、むしろ、嫌な物に囲まれるのが当たり前という間違った常識を構成し、危険な環境に身を投じる無鉄砲さの一因となったのである。
騙されたり、虐げられたり、自分の感知しないところで望まないことをされていたり、そういう悪しき行為にさえ鈍感であった。
人は言った"仏の○○"と。
あの頃の自分は好きだ。
それでも、すべてがうまくまわっているようだった。
しかし、そんな時代は失われたようだ。
人の悪しき行為を流せない自分がいる。
一つ一つに囚われ、内なる怒りを増殖させ続けている。
しかも、一つ一つの悪に裁きを下せないので、全部を憎む傾向があるようにさえ思える。
そんな自分を形容して言うなら、"鬼の○○"だろう。
ここでこの"間合い"が大事になる。
悪なるものとの距離を保ちながら見極め、自らの良心を育まねばならない。
それを拡大させ、もういちど宇宙を覆うレベルに育ててみなきゃ。
義務ではなく、権利として。
2010年4月6日火曜日
consideration

子供の頃、ピアノの音が嫌いだった。
姉が嫌嫌ながらに弾くピアノに深く心を痛めていた。
レコードで聞くピアノにそんな嫌な思いをすることはなかったのに。
思いは伝わる。
素晴らしい演奏とは音を聞かせるレベルではなく、思いを伝えるものではないかと思う。
一心不乱で物事に打ち込み、行為の中で雑念を忘れ、純粋になるほど、思いは姿を表す。
それが"道"である。
この間から、ピアノの先生方と交流があるため、どうもピアノに絡んだ話になっているが、もちろんピアノに限った話ではない。
武道やその他の~道も同じことだということについて、先日のエントリーでも書いているが、今回のエントリーで言いたいのは、日常生活において、この道を体現することについて。
実は、なにか特別なことをしている時にだけ、この"思いは伝わる"という状況ではなく、すべての時間、すべての行為において、この"思いは伝わる"という状況なのではないかということ。
雑念が多いほど、その雑念へ思いのパワーを漏電させ、何かを成し遂げるという結果から遠のくということ。
幼い頃から、自分の中で自分と話しつつけてきた自分のような人間は、どれほど多くのパワーを浪費してきたことだろう。
一心不乱で尚且つ、正しき方向への導きがあること。
それが尊ばれる"道"なのである。
登録:
投稿 (Atom)